北の生活文化(開拓地・北海道での暮らし )

 

 

北の生活文化(開拓地・北海道での暮らし )


 

 
開拓地・北海道での暮らし
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20. 雪中木材搬出の景 21. 平岸村開拓の景
 雪が降ると農作業も開墾作業もできなくなる農民たちにとって、森林や山は、生計を立てるための大切な場所だった。積雪を利用した木材の搬送は、農民たちの冬の仕事として各地で盛んに行われ、馬を持つ者は馬橇(ばそり)で木材を搬送し、若くて力のある者は伐木に携わった。山のふもとなどの飯場(はんば)では飯炊(めした)きとして農家の主婦が携わり、一家を挙げて冬山稼ぎに精を出した。これは夏の開墾作業以上に過酷な労働だった。

 河川は、明治初期まで石狩川、空知川、天塩川(てしおがわ)、十勝川、釧路川、尻別川(しりべつがわ)などの大河を中心に支流や末流が原野を網の目のように流れていて、大洪水などの恐ろしさもある反面、移住者に大きな恵みを与えた。特に秋は、小さな川でもサケが上り、札幌のように早くから開けた場所でも豊平川などにサケが大量に遡上(そじょう)した。移住者はこれを捕って冬の食物としていた。

 野生動物は、人々に被害を与えると考えられたクマやオオカミが、移住者の生活を守ることを理由に撲滅の対象とされた。当時の開拓使や道庁、移住者には開拓の早期進展や生活の安定が第一であった。そのため、自然のバランスを考えるという余裕がなく、捕獲の奨励金を出したり、ストリキニーネなどの薬物による駆除が進められた。オオカミが人を襲った例はほとんどないが、家畜を守る理由から駆除され、明治20年代半ばには、ほぼ絶滅するに至った。
 
開拓者の森林保護運動
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22. 北越殖民社の開墾地 23. 現在の野幌森林公園
 和人による明治以降の北海道開拓は、自然を大きく変えるものであり、それは環境の破壊であったともいえる。しかし、この時点で移住者たちはこれを自然の破壊とは考えていない。国の政策に協力して、未墾地を開き農業を定着させ、新しい農村社会を作り上げることが進歩と考えていたからだ。

 これに対し、過度の森林破壊が農業や住民の生活を脅かすことを理解して、森林の保護を唱える人たちもいた。例えば、野幌原始林と呼ばれ、道民に親しまれてきた現在の道立野幌森林公園は、この周辺に移住した北越殖民社(ほくえつしょくみんしゃ)や広島団体の指導者および農民の努力によって自然が残されたという経緯がある。北越殖民社の関矢孫左衛門(せきやまござえもん)や広島団体の和田郁次郎(わだいくじろう)などは、開拓と森林保護という相反する課題の中でその調和を考えた数少ない自然保護の先駆者であった。彼らは、この地域での移住者の生活安定をはかり、農村を確立するためには水利を涵養(かんよう)し、農作物を風害から守り、森林を残すことが不可欠と考えた。明治32年(1899)に書かれた関矢の日記には、野幌官林を町村の基本財産として下げ渡そうとする北海道庁に対して、関矢や和田を中心とする人々が、熱心に反対運動をし、それを阻止したときの様子が記されている。
 
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